昭和46年07月11日 朝の御理解



 御理解 第68節
 「神参りをするに、雨が降るから風が吹くからえらいと思うてはならぬ。その辛抱こそ、身に徳を受ける修行じゃ。いかにありがたそうに心経やお祓をあげても、心に真がなければ神にうそを言うも同然じゃ。拍手も、無理に大きな音をさせるにはおよばぬ。小さい音でも神には聞こえる。拝むにも、大声をしたり節をつけたりせんでも人にものを言うとおりに拝め。」

 神参りをするのに、雨が降るから風が吹くからえらいと思わずに、そこのところを辛抱していくこと。その事が身に徳を受ける修行じゃとこう仰る。この後のことは、ここはどうでもよいと言うことになるわけです。大きな声で拝もうが、小さい声で拝もうが、拍手を打とうが打つまいが、節をつけようがつけまいが、それはまぁ言うなら他のことはどうでもよいと言うこと。
 私は、今日、ここんところをね、皆さんに聞いて頂きたいと思う。どうでもよいところに、えらい力を入れておる様な事はないだろうかと。だから、一番力を入れなければならないところは、雨が降るから風が吹くからえらいと思うてはならんと言うところである。その事を困った事だとしないこと。しろしい事だと思わないこと。いや、そこのところを辛抱することこそ、身に徳を受ける修行じゃと。願って願って願い抜いておるところが、そこでなからなきゃならん。
 だから、後のところはね、大祓いやら心経やらを、だから、大祓を上げても良かりゃ、心経、いわゆるここは、盤若心経のことでしょうね。お経も上げてもええ、線香立ててもよか立てんでんよか。お花を上げてもよかりゃ上げんでんよか。大きな声でもよかりゃ小さい声でもよい。節を付けてもよければ付けんでもよい。人にもの言う通りに拝め。もう普通、ここんところは、どういう事かというとね、もう実に楽なと言うことなんです。人に物言う通りに拝めという事は、そういう信心をせよと。
 本当に気張りがない。成程、ここんところはどうでも良いと言うこと。そこで私は、昨日のお月次祭の後に、お話させて頂きましたお話を、お祭が終わって、私は繰り返し繰り返し、自分の心の中に頂いてみた。もう本当に信心はここに極まるなと思わせて頂いて、自分でも、そこを繰り返させて貰う。又、それから後に残っておった人達にも、その事を又繰り返しお話したことでしたございます。ですから、ここんところだけ、私は話とけばよかとさえ思いました。
 又皆さんとても、ここんところさえ、本気で頂かせて頂こうとする姿勢を以て、それを研究していったり、実際問題に直面すると、矢張り問題はそこにあります。だから、その問題とするところに当てはめて考えていったら、それで良いと言うことになるのです。そうしたら、身に徳を受けるのです。ですから、ここんところだけを頂けば良いのである。皆さん、昨夜のお話を聞かれた方は、しかし何べんでも何べんでも、矢張り、聞いた上に聞かなければ、なかなか自分のものになりませんものね。
 信心生活とは、楽しいものだという事でしたね。信心生活とは楽しうて楽しうてならん生活を、信心生活というのだと言うのです。それを信心生活ではなくてです。夕べのは、少し言葉が違っとりましたけれども。今日、新たに言うならば、おかげ生活じゃから苦しいのだという事。あげんして貰わんならん、こうありたい。どうぞ、ここんところをお願いします。そういう信心だから苦しいんです。
 教祖様は、昨日を忘れ、今日を喜び、明日を楽しめと教えられる。随分このことを頂いて来たんですけれども、昨日ほど、その事を実感として、それを感じた事はなかった。成程、そういう生き方だったら、確かに楽しいでしょうね。昨日は例えば、苦しかった事があっても、それを忘れておる。今日を喜び、今日一日を喜ばせて貰えれる。しかも明日のことじゃない。もうそれこそ、お互いは一年も二年も先のことまで楽しむどころか、心配をする、取り越し苦労をするというようなお話でした。
 確かにそうですよね。金があればあるで、息子が出来が良かれば良いで、悪ければ尚更のこと、先はどうなるじゃろうかと。お金があってもなかっても同じ事なんだけれど、なければないで、お先真っ暗と言うて悲しみ、あればあるで、これをどんなにして、いつまでも持ち続けようか。この財産を減らさん為に、それこそ、先の先まで心配したり苦労したりする。先を楽しむどころか、先を苦しんで考える。取り越して苦労をする。こんな馬鹿な話はない。
 それは、どういう事かというと、あぁあらねばならん、こうありたい、こうして貰いたいというような、おかげ信心だからと言うこと。所謂、信心生活ではなくて、神様を拝んでおる。そしておかげ生活をしておる。おかげを頂かんならん為の信心をしておる。だから苦しい。だから自分がちょっと不信心になったり、修行が出来なかったりすると、もう頂けんだろう。とても今日は、いけまいと思うて不安になってくる。
 今日は、神参りをするに雨が降るから風が吹くから、ということは、信心をするにということ。神参りをするという事、信心をするにです、所謂、世間で言う、これが雨じゃろうか風じゃろうかと言った様な問題なんです。そういう問題がです、えらいと思うてはならぬと仰せられる。それを困った事としてはならんと言うこと。それを難儀と言うてもならん、本当は。それこそ、神様の御事柄として、それを頂かなければならんと言っておられる。えらいと思うてはならん。困ったと思うてはならん。
 ところが矢張り、そこをえらい事はえらい、きつい事はきついけれどもです。そこのところが辛抱じゃとこう仰る。辛抱こそ、身に徳を受ける修行じゃと。そこでその辛抱の具合です。神様の御都合と思うけどもきつい。神様の御働き、御事柄と思うけれども、矢張りきつい。けどもそこのきついと思うところを辛抱しなければばいけん。昨日も楽な信心と言うような事でお話しましたですね。
 とにかく、時々でもお参りする人達が、日参り夜参りする人達を見てから、あげん参らんでん、私達は時々参っとっても、こげなおかげを頂きよると言うけれども。事、雨だ風だという時には、もう、雨に濡れておる、風に吹き折れておるのである。修行しよらん者は。だからそれは本当の安心でも、本当の喜びでもなかったという事になる。それは当たり前なんである。
 けども、雨も降らん風も吹かん、平穏無事の時にはです。成程、毎日、金光様を家では拝みよります。信心しよりますから、矢張りおかげを受けておる。例えば、おかげと感じられる事だけでは楽だけれども、さあ雨だ風だという時には、もう濡れずっぽりになっておるし、それこそ、吹き折れてしまっておるというような事。そこを、例えば、日参り夜参りさせて頂いて、信心修行でもさせて頂いておる人はです、その受ける姿勢が違う。矢張りドッコイと、元気で受けておる。
 そこん時に初めて、成程信心修行が一生懸命出来ておかにゃならんなぁと言うことが分かるのだけれどもです、その信心修行もです。例えば昨日私はそこん所を、こういう風に表現しましたですね。例えば暑いこともおかげ、寒いこともおかげ。それはもう金光様の信心する者は皆が言うことです。降ってもおかげ照ってもおかげですよと。暑うてもおかげですよ。寒うてもおかげですよ。暑いからこそ寒いからこそこれが育つのであり、ここがおかげになるのだという事を、みんな知っておる。
 ところが実際問題として、ほんなら、暑うなって参りますと、うだる様になる。どうもない者でも、どうかあろうごとある。心はだらーっとなって、しなければならない事でも出来なくなったり。寒いと、それとは反対にです、それこを、縮こまってしまい、凍えてしまいそうにある。暑いのも寒いのもおかげなんだけれども、分かっちゃおれども、それを有難いと受けられない。
 その暑い寒いを辛抱する修行が、まず前提として出来なけりゃならん。信心の基本姿勢と言うものが出きるためには、矢張り日参り夜参り、人のせん修行でもさせて頂いてです。此処のところの姿勢をまず作れと言うて、私自身のことをお話しました。椛目時代の、あの暑いお広前で、日中御用をさせて頂くという事は、それこそ、今から考えて見て、並大抵の事ではなかったけれども。成程暑いうだるようにある。
 そこはじっと生神金光大神様、金光大神様と、お称えさせて頂いて、御結界奉仕をさせて頂いておると、それこそ背なには暑いような汗を感ずるけれども、座布団までじっくりなるような汗で、今のように水は頂かなかった時代でもそうでした。椛目のお広前は。もう御神前に出ただけで、パーッと汗が出よりました。けれどもそこんところを金光様とお縋りしながら、一時間二時間座らせて頂いておると、後はねその背を伝う、その暑いような汗を背中には感ずるけれども。
 前からは有り難いがこぼれるというお話でした。例えて言うなら、成程凍える様に寒い。けれども生神金光大神様と一生懸命頑張らせて頂くとです、着物一枚くらい減らしてもよかくらいに、ポッポするようになるという事。そこに至った時に初めて、寒さも又有難い、暑さも又有難いということが分かるのです。そこの精進をせず、楽な信心ばかりでは、私は、おかげの頂けるはずは、絶対にない。そうでありましょうが。
 成程、信心は見易うするが良いけれども、そこんところを、一遍体得してしまうまでを、三味線の稽古をするでも同じこと。一通り、調子を覚えてしまうまでは楽じゃないのです。調子を分からせて頂く様になる。はぁこれが二上がりだ、これが三下がりだと。それは不思議なもの。それが体験体得出来てくる、本当に。お師匠さんが、これが二上がりですよ、これが三下がりですよと言われたっちゃ、始めの間は、全然分からん。
 けれども、段々その事を本気になって稽古をさせて貰いよるとです。自分の耳で、キチッとこれが調子が合う時だ、合うてない時だ言うことが分かる。信心もです、その調子が分かるところまでは、辛抱しなければいけんというのです。そこんところの辛抱をさせてもらう時に、矢張り暑いことは暑い、寒いことは本当に、凍るように寒いということになるんです。だから、そこで止めたらそれまでのこと。暑いとも寒いともおかげと言われるけれども、矢張り暑か時は暑か、寒い時は寒かで終わってしまう。
 そこのところのです、基本姿勢というか、信心の調子が体得出来たら、後はそれこそ一つ一つ覚えていくというかね、稽古が上達していくに従って、もう楽しゅうて楽しゅうて応えんと言うことになるのです。信心もそうなのです。成程、その辛抱こそと言われることが分かるでしょう。その辛抱こそ、身に徳を受ける修行じゃ。暑い、けれども、じっと生神金光大神様を唱えさせて頂いておると、どこから湧いてくるか分からん程しの、そのうだる様なだるさがなくなって、それこそ精気が満ちてくる
 。そして背を伝う汗は、暑い程にあるけれども、前からまた熱いような涙がこぼれ程しの有難うなってくる。その辛抱こそが、そのちょこっとばかりの辛抱こそが大事だぞ。しかもその時にです、身に徳を受けていくのです。信心させて頂いておるとです、あれもおかげであったという事が分かってくるようになる。所謂、昨日を忘れるということは、過去のことなんです。過去の一切がおかげであったと分かる事なのです。
 だから、本当に、過去にあんな事があったというてですね、一つの痛恨と言いますかね、思いとか、恨みとかという、恨み辛みと言った様なものが残る。そういうもんじゃない。それは恨みに思うとった、辛みに思うておったけれども、いや、その事が、今日、こういうおかげの元になったという事が分かって行くのが信心。所謂、過去を生かしていく事が信心と言われておりますから。成程、昨日は忘れていけれる。これだけは忘れられんと思うような事でも、かえって、有難いものになってしまう。
 そこで、いわゆる、今日を喜ばせて貰う。どうして喜ばれるか。こげな苦しい中に、喜べるはずがあるか。こんな中に喜びが湧くはずがない。ところがドッコイ、実際は、本当の信心生活にならせて頂こうと意欲し、姿勢を作らせて頂くことによってです、喜ばせて貰わなければおられない事になる。私の過去二十年前の信心の事を、知っておられる皆さんも、随分ありましょう。
 本当に大坪さん、こげな苦しい中に本当にそげん有難かつですかち、言われよりましたからね。本当に有難うして応えられなかった。また有難なからなきゃ、あげな御用は出来なかった。有難いの一念がもう暑いも寒いもない遠いも近いもない。いわばおかげであったという事。だからそれを今の私がお話をしておることに持ってくるならです、その一切合切を神様のご都合として有難く受ておったという事になるのではないでしょうか。その事で鍛えて下さるという風に頂いておったのではないでしょうか。
 信心はねどういう苦しい中にでも、苦しいことは苦しいけれども、その苦しいけれども、喜びというものは湧いてくる。これは楽という意味じゃないですよ。苦しいけれども有難いというものが下から湧いてくる。成程今日を喜ぶという事が出来るです。そういう受け方が出来る時に、そのきついと思うとったいわば寒いと思うておった暑いと思うておった事がです、おかげの元になった。暑い寒いを言うちゃならん。
 その事をえらいと思うちゃならん。一生懸命の辛抱がいるわけです。そのところを私は日田の綾部さんの例を取りましたですね。昨夜。昨日久富くにかさんが、御心眼に頂いておられる。綾部さんが此処に座っとられる。その周囲をねそれこそわんわん言うごと蚊が取り巻いておるところである。けれども一つも蚊に刺されておられる模様ではない。只、蚊が周囲にいっぱいおる中に座っておられるというところである。
 最近綾部さんの一身上の上にまたお店の上に、人間関係の上にもう本当にそれが一遍ではない。もう次々とです本当に信心がなかったら、どげんなるじゃろうかと思う様な事が次々と起きておる。それがもう本当に何と言うでしょうか。本当にどんでん返しのおかげになって来とるその一つ一つが愈々の時に。だからそういう体験を積んで行きよるけれども、次の、難儀な問題をする時には、矢張り不安でもありゃ苦しくもある。
 だから、一生懸命、それでも、先生が言うなと仰る、右にせろと仰るから、左にせろと仰るから、そのことを、辛抱しておるところである。だからそういう間は、絶対に蚊は食わん。所謂、煩わしい問題がいっぱい起きておる。もう本当に此処に一言言うたならと思うようなこともある。昨日なんかは、丁度、昨日の朝の御理解のように、それこそ人の口には戸は閉てられないというような事を。
 先生聞きましたと言うて、昨日お届けがあった。私はこの人のために親切にと思うて、本当に真心こめて親切にさせて頂いて、普通ではとても出来んようなことまでして上げよるとを、世間の者はどう言うかと言うとです、その人をまるきり、その人の財産を乗っ取るかのように、世間では噂しよるという話を、今日は聞きましたと。だからこれは、一通り説明しとかにゃいかんだろうかと言うことであった。
 今朝の御理解だから、今朝の御理解を頂きなさい。それこそ、泥棒と言われても、乞食じゃと言われても、泥棒しとらにゃよし、乞食しとらにゃよし。顔は神様が洗ろうてやると仰るのじゃから。さぁ辛抱しなさい。ところが実際、あちらの性格から言うたら、もう辛抱出来んごとある。だからやっぱ苦しい。けれどもです、私は、ここんところが繰り返し繰り返し出来ていきよる時、その一つ一つがです、もう本当に、どんでん返しと思われる様なおかげを頂くんですから。
 こういう情けない問題腹の立つ問題、こういう痛い痒い問題でもです、ここん所のおかげさえ頂いていけば、どういうどんでん返しのおかげというのは、人間の想像のつかない所及ばない所。だから楽しゅうなってくるじゃないですか。今こげん苦労しよるけれども、これがどげなおかげになるじゃろうかと思うただけでも楽しいですよね。だから明日を楽しめれる。それを信の薄い者は明日どころではない。
 一年先やら十年先までも心配しよる。それは本当の信心生活ではなくて、おかげを頂くことが信心だと言ったような、おかげ生活だからである。明日が楽しめる訳が分かったでしょうか。分からんなら、私は、繰り返し皆さんに聞いて頂きたいと思うとる。ここは馬鹿と阿呆で言いたいけれども、こうしたいけれども、そこんところを一つ馬鹿にならせて貰おう。阿呆にならして貰おうという事を願わせて貰うて。
 所謂、蚊取線香になりなさい。今日ね、綾部さんに会って、昨日言うこと、久富さんが、こげなお知らせを頂いておる。あなたの周囲に、蚊がわんわん言いよるごとおるち言うことはです。あなた中心が、中が一つ、いよいよ大きゅうなることだ、豊かになることだ、蚊取線香になることだと、私が申しました。左巻きになることなんだ。左巻きじゃないものが左巻きになろうとする、その努力が難しいのである。
 それが辛抱なのである。ここは神様の仰せ通りに、馬鹿になってと、矢張り歯を食いしばらんならん程に辛抱せんならん。けれどもね、そこんところに熱がかけられる時に、その蚊取線香は燃えていく。燃えていくところからです、その煩わしい、わんわん言いよるごたる蚊が、みんな落ちてしまうと言うおかげになるのです。この辺のところがね、信心させて頂いておかげを頂く。
 もう先の方にはね、私の例を言うたが一番良いでしょう。あんなに難儀が続いておったけれども、さあ後は、すかぁっとしたように、蚊が落ちてしまったでしょう。なくなったでしょう。だからここんところをです、私どもが失敗せんように。言うちゃならんことは、分かっとるばってん言う。こうしちゃならんことは分かっとるけどもする。本当にそこんところが分かりゃ辛抱が出来ん筈はなかろうと思うばってん、辛抱が出来とらん。そして蚊にちくちく刺されておるような状態。
 煩わしい問題が起きて来たら、来た程です。今こそ、蚊の大群が自分の周囲を取り巻いておると思うて、いよいよ、それこそ、呆けのごとしとらにゃん。いよいよそれこそ馬鹿の風をしとかにゃん。人が何と言うて進言してきてくれても、まあ良かですが、神様が知ってござるですよと言うくらいの程度しか言わんでよい。まぁそういう風に、昨日、私は、綾部さんにお話したことでした。
 そういう時に、いよいよ、豊かになる稽古、大きゅうならせて頂く稽古が出来て行く時。だからそういう苦しいことだけれどもです、ここに私が辛抱し抜かせて頂いたら、この問題が、どげなおかげに進展していくだろうかと思うただけでも楽しいでしょうが。明日が楽しいのです。私は、ここんところを皆さん、本当にわかるまで、一つわからせて貰うて、それを実際、日々の生活の上に現わしていかなければいけんのです。
 神参りをするに、所謂、信心をするにと言うこと。雨が降るから風が吹くから、雨が降っても濡れんで済む、風が吹いても折れんで済む、その辛抱こそ身に徳を受ける修行であり、その時こそ、それを悔やんじゃならん。吹くからえらいと思うてはならんと仰ってる。それをえらいと思わずに有難いと思えと言うこと。ところが、なかなか有難う思えん。そこを金光様金光様で辛抱をするということ。
 その辛抱をしておる時に、大きゅうなれるのであり、豊かになれるのであり、その時に煩わしいめぐりのお取り払いは落ちてしまうのである。その修行こそが身に徳を受ける修行だということですから、後の所は、どうでも良いと言うことになる。その時に信心は楽なものだという事がわかりましょう。だからやっぱり、私どもは本気で、その趣意を取らせて頂いてです、、本気でそれに取組ませて頂かなければ、一生煩わしいものが周囲から外れんことになります。
 如何に有難そうに、心経や大祓を上げても、如何に信心が有難いと口で言うても、そこんところがわからんなら有難いことじゃないです。それはだから、神様に嘘を言うようなもんじゃと。この問題だけは受けられんち言うなら、それは神様に嘘を言いよるとじゃち言うこと。はぁ信心ちゃ有難かですよ。そしてちっと苦い問題、辛い問題が起きてくると、もうそれを苦いと言うたり、辛いと言うたり、こげなものは食べきらんと言うて、向こうに捨てる。神様に嘘を言うとる様なものじゃないか。
 拍手も無理に大きな音を立てることはいらんと。音をさせるには及ばん。小さい音でも神には聞こえる。拝むにも大声をしたり、節をつけたりせんでも人に物言うとおりに、もう本当に当たり前に、何でもないことの様にしていけれる信心なのです。けれども、そこのところのですね、調子を体得するまでは、一つ頑張り抜かなきゃいけないという事なのです。暑かろう、けれども辛抱しなさい。その向うに、暑いけれども、後の方には背をつたう汗の熱さを感ずるけれども。
 前の方から、ありがた涙がこぼれてくるという様な、おかげを受けられる。成程凍えるように寒いけれども、一生懸命に神様に向かわして頂いておったら、体中がポッポとなったというようにです、温もってくる様なおかげが受けられる。そこまで、私は、辛抱しなければいけない。だから、ここんところが、身に徳を受ける修行じゃと言うところが大事なところである。神参りをする身から、心に徳を受ける修行じゃと言うところまでは行く。後はどうでも良いという事なんです、ここんところは。
 大きな声を上げちゃならんと仰るのじゃない。だから上げようごとある者は上げたが良い。心の中で心中祈念でもええ。これは世間のいろんな場合でもそうです。やろうごたるならやったっちゃいい。やらぬならやらんでもええと言うたごたる風になってくるわけです。そういうところまで、一つ信心を進めていきたい。そこんところを体得していきたい。そして本当にです、昨日を忘れて、今日が喜ばれ、しかも取り越し苦労のない生活。明日が楽しめれる信心生活をね、本当に身につけたい。
 本当の信心生活とは、その様なものだ。過去が忘れられる。今日が喜ばれる。明日が楽しまれる。それが信心生活者の姿でなければいけん。信心はしよるけども、それがもし、頂けんとするならば、それは自分のは、まだまだ修行不足であると同時に、成程、信心信心と言いよるけれども、心の中じゃおかげおかげと言いよるという事を悟らして貰うて、おかげを頂いていかなければなりませんね。
   どうぞ。